名もない歌
優姫は5歳より前の記憶がない。それは今更言わずとも分かっていること。
雪の日、枢センパイに悪いヴァンパイアから助けられて理事長の所に預けられた。
記憶の始まりは雪の日。
それより前のことは何も分からない。何も知らない。……はずだった。
守護係として見回りしていた途中、ふと何気なく頭に浮かんだ歌。
辺りに誰もいないだろうと思い口ずさんでいると…
「……優姫……その歌は……」
「枢センパイ?」
そこには、普段からは想像も出来ないくらい驚いた表情をした枢の姿。
「あ…えっと…枢センパイは、この歌をご存知ですか?
知らないはずの歌だと思うんですけど、私…何処かでこの歌を知っている気がする…変ですよね」
知らないはずの歌。
だから歌えるはずもない。
少なくとも、私の今ある
記憶では知らない。
「そう――…その歌は…」
「枢センパイ?」
不意に見上げれば辛そうな表情の枢センパイ。
何とかしたいと思っても私には、為す術もない。
ただ、黙って見ているしか出来ない無力な自分。
一体、どれくらい経っただろう。
時間にして数秒?数分?
短くも長い。そんな時間。
枢は、優姫に向き直って困ったように微笑む。
「ごめん…僕の勘違いみたいだ」
「……はい」
勘違いじゃない…
何か有るんじゃないですか?
そう問いたい気持ちがないでもないけど、私はそれ以上踏み込む勇気がなくて…静かに頷いた。
「優姫、おやすみ」
「おやすみ…なさい…枢センパイ」
言葉少なげに別れの挨拶をすると優姫は、その場所から去って行く。
残った枢は先程優姫が歌っていた歌を思い出し、悲しげに瞳を伏せる。
あの歌は…お母様が…樹里が好きだった歌。
玖蘭邸で、幼かった優姫によく歌っていた。
記憶を封じられた優姫。
覚えているはずもない歌。だからこそ、その歌を聞いてまさかと思った。
あの歌は…愛しいひとに宛てた恋歌。
『いつか優姫もこの歌の意味が分かるわ。その時は、愛しい人に歌ってあげなさい』
『はい、おかあさま』
たった一人の愛しい存在へ。
優姫…僕は…―――
枢の呟きは、風の音に掻き消され聞き取れない。だから誰も知らない。
頬から流れ落ちた一筋の雫を――
ただ、月だけが知っている。
『僕は…――僕がこれからする事は君を傷つけるかもしれない。
でも、この腕の中に温もりを取り戻したいんだ…優姫、愛しているよ――』
*end*